ドクターヘリの基地病院として20年の実績を誇る愛知医科大学病院。高度救命救急センターで救急・集中治療と外傷外科を専門とする苛原隆之氏は、ドクターヘリのフライトドクターとしても第一線で活躍しています。
最初の夢をあきらめず紆余曲折の医師の道のり
苛原氏は小学生のときから「医者になりたい」と思っていたとか。「幼少期はしょっちゅう風邪をひくなど病弱で、よく近所の小児科医院に連れて行かれました。そこの先生がカッコよくて、なんとなく医者にあこがれていました」。とはいえ中学・高校では数学が苦手でしたが、大学は医学部を志望。医学部は不合格でしたが、東京大学の理系に合格し、東大生として大学生活がスタートしました。
しかし医者になりたいという夢はやはり捨てきれませんでした。2年が経過したところで意を決し、東大を中退。浪人生活を経て横浜市立大学医学部に進み、晴れて医学生となりました。東大を棒に振ってまで医学部にこだわり続けたのは、「どうしても医者になりたい」という決意の固さを物語っています。
英語を得意としていた苛原氏は、海外で活動することも視野に入れていました。「医師は世界共通の職業ですので、医療を必要とする患者さんがいる海外の被災地や紛争地で外科医として働けるようになりたいと。そうした思いから、横浜市立大学を卒業後、日本赤十字社医療センターの外科に入職しました。その1年目の夏休みに、ケニアの赤十字病院を見学する機会を得て、大いに刺激を受けました」
2008年、「救命救急や外傷外科の経験をもっと積みたい」と願い、日本医科大学救急医学教室へ移り、大学院を含めて9年間、同教室に在籍しました。この間、2015年のネパール地震のときにJICA(国際協力機構)の国際緊急援助隊メンバーに選ばれ、現地に派遣されました。それは、海外の災害医療に関わりたいという苛原氏の希望が実現した瞬間でした。
愛知医科大学病院で初めてドクターヘリと出会う
その後、苛原氏は埼玉県にある川口市立医療センターの救命救急センターを経て、2019年に縁あって愛知医科大学病院高度救命救急センターに赴任。ここで初めてドクターヘリと出会うこととなります。
「救命救急や外傷外科に携わってきた者にとって、いち早く現場で治療を行うために出動するドクターヘリは魅力があり、一度は経験してみたいと思っていました。医療ドラマ『コード・ブルー』で有名になり、市民の関心や期待も高いですからね。そのチャンスが巡ってきたわけです。現在フライトドクターは11人いますが、私もその1人として仲間入りしています」
日本のドクターヘリは、2001年4月に岡山県で運航されたのが始まりです。愛知県では2002年1月、全国で4番目にドクターヘリが導入され、愛知医科大学病院がその基地となりました。以来、これまでに9千件を超える出動実績を残しています。
「愛知県には名古屋という大都会があるとともに、山間の地域や海沿いの地域もあり、バリエーションに富んでいます。また、クルマ社会で交通事故が多く、重症外傷の医療ニーズが高い地域でもあり、早い時期にドクターヘリを導入したのは画期的だったと思います。特に山間部や海沿いの過疎地などで重症患者さんが発生した場合、ドクターヘリであれば早く現場へ到着でき、都会と変わらないスピードで治療を行うことができます」
いうまでもなく、ドクターヘリは重篤な患者さんが発生した現場へ、医師と看護師をいち早く送り届けるためのヘリコプターです。重症外傷や心筋梗塞などで一刻を争うような患者さんのもとへ、1分1秒でも早く駆けつけて治療に着手するところにドクターヘリの大きな意義があります。
「当初は、単に重篤な患者さんを迅速に医療機関へ搬送するためのものと捉えられていたようですが、これはまったくの誤解です。現場に医師と看護師を派遣して早期に治療を開始する。そのためにドクターヘリがあり、機内には初期治療に必要な医療機器や医薬品が搭載されています」
コロナ禍真っ只中に経験した苦いエピソード
ドクターヘリは消防からの出動要請によって運航されますが、愛知医科大学病院のドクターヘリは消防以外の出動要請にも対応しています。2017年から小児重症患者を適切な施設へ速やかに搬送するための「愛知県小児重症患者相談システム」がスタートしたのに伴い、その核となっているあいち小児保健医療総合センター(大府市)から直接、出動要請が入るようになりました。その件数はこれまで優に百件を超えています。このように、「小児重症患者の緊急転院搬送にもドクターヘリが役立っていることは、我々の大きな誇りです」と苛原氏は語ります。
ドクターヘリで駆けつけた現場には、心肺停止の患者さんがいるケースもあります。「そうした場面に遭遇した場合、究極的な救急処置として蘇生的開胸術を施すこともあります。私も開胸手術を行い、ドクターヘリの中で患者さんの心臓をマッサージしながら病院へ帰ってきたことがあります」
そう語る苛原氏ですが、コロナ禍真っ只中の2021年には苦いエピソードもありました。
「交通事故が発生し、出動したときのことです。患者さんは微熱がありましたが、新型コロナウイルスの感染症状はなく、スタッフも感染防護具を装着していました。腹腔内出血の疑いがあった患者さんをドクターヘリに乗せて病院に戻り検査したところ、腸管腸間膜損傷と診断され、私が緊急手術を行いました。患者さんは一命を取り留めましたが、その後コロナの感染が判明したのです。十分な感染対策を講じていたものの、私をはじめヘリや手術スタッフが濃厚接触者となり、数日間ドクターヘリに乗れなくなってしまったことは苦い経験でした」
コツコツやっていれば誰かが背中を押してくれる
前述のように、苛原氏はネパールで災害医療に携わりましたが、記憶に新しい2023年2月のトルコ地震のときも国際緊急援助隊救助チームの一員として現地に派遣され、夜間は氷点下となる極寒の苛酷な環境の中で救助活動を行いました。
「私はすんなり医師になれたわけではありません。大学を途中でやめ、浪人して医学部へ入り直すという紆余曲折を経て、ようやく子どもの頃からあこがれていた医師への道を歩むことができました。最初に抱いた目標を忘れなかったから医師になれたのだと思います。その意味で、医学部を目指す人たちには〝初心忘るべからず〞という言葉を贈りたいですね」と苛原氏。
そして、「〝人事を尽くして天命を待つ〞こと。これは父から口を酸っぱくして言われたことでもあります。夢は簡単には叶えられません。私は医学部に入るのに3年かかりましたが、コツコツと努力するしかありませんでした。海外の被災地で災害医療活動をしたいという希望も、十年以上経ってようやく実現し、しかも2度の機会が訪れたわけです。コツコツやってきたからこそ、叶えることができたのだと思います。コツコツやっていれば、きっと誰かが見ていて背中を押してくれる。それを実感しています」と、努力することの大切さを訴えます。
「ドラマ『コード・ブルー』の世界に憧れて医師を目指す人も少なくないと思いますが、ドクターヘリは医療の一部分でしかありません。ただ、命の危険がある患者さんへの治療に素早く対応できるドクターヘリに興味を持ってもらえれば、やはり嬉しいですね」
Profile
苛原 隆之(Irahara Takayuki)
いらはら たかゆき
東京都出身。1994年東京都立戸山高等学校卒業、2003年横浜市立大学医学部卒業、2017年日本医科大学大学院医学研究科修了。2003年5月日本赤十字社医療センター外科、2008年4月日本医科大学救急医学教室、2017年4月川口市立医療センター救命救急センターを経て、2019年7月愛知医科大学病院高度救命救急センターに赴任。准教授。現在医局長を務める。救急・外傷外科の実践、災害医療、急性期重症患者の栄養療法、侵襲時栄養代謝の基礎研究を柱に、後進の指導・育成にも力を入れている。
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愛知医科大学病院
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※2023年12月時点の取材内容
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