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たった一人の診療科で、混成メンバーを司る救急診療科医。

たった一人の診療科で、混成メンバーを司る救急診療科医。

昭和大学垂水准教授01
垂水 庸子 氏
Youko Tarumi
昭和大学医学部
救急・災害医学 准教授
※肩書は2023年6月取材時

医療の世界で社会に貢献したい―。

純粋なその想いを胸に、医学部受験を乗り越え、医学生として学び、患者さんのために今、それぞれの分野で活躍する先輩たち。先輩たちはどうして医療の道をめざしたのか。どのような大学時代を過ごし、医療人としてどのようにキャリアを重ねていったのか。第一線で活躍されている先生に、貴重なお話を伺いました。

高校3年で決意した文系クラスからの医学部受験

「私の専門は『救急医学』とも言い切れず、内科・救急・総合診療(プライマリ・ケア)が少しずつオーバーラップしている領域になります」と話すのは、「断らない診療」を掲げる昭和大学医学部救急・災害医学講座の垂水庸子准教授である。まさに救急・災害医学の近年の歩みとともにキャリアを重ねてきた医師の一人である。

垂水准教授の父は保健所に勤務しており、医師の資格を持っていた。その父の勧めもあって、中学3年頃から医学部への進学は意識していた。しかし高校に入学し、受験態勢には至らないまま、2年からは選択授業の関係で文系志望者の多いクラスに編成された。ようやく3年生になってから医学部受験を真剣に決意した垂水准教授は、慌てて理系科目の勉強に取り組んだ。都立高の自由な校風にも恵まれ、選択科目の15コマをフルに理系の受験科目に充てることができた。

スロースタートだったものの、自称ガリ勉。元来の集中力をもって文系クラスの中で猛勉強し、予備校にも通うことなく、見事、昭和大学医学部に合格した。

「周りとの競争が無かったことが精神状態には良かったのかもしれません。合格して、入学直前まで1年次の全寮生活のことは知りませんでしたけど(笑)」。その富士吉田キャンパスでの寮生活は、同部屋のメンバーともすぐに仲良くなり、和気あいあいと過ごしたという。

昭和大学垂水准教授014

白馬診療部が経験と視野を広げる転機に

2年次からは都内の旗の台キャンパスに移り、医学の勉強も徐々に専門的になってきた。おまけに通学は片道およそ1時間半。垂水准教授は家で授業の「まとめノート」を作り、電車の中でひたすら繰り返し覚えた。後にこの「まとめノート」は同級生の間でも評判となり重宝されたという。

3年次から入部した白馬診療部の活動は、それまでの自分の視野を広げる転機となった。白馬診療部とは、北アルプスの北端に位置する標高2,932メートルの白馬岳の山頂付近にある「白馬山荘」と「町営頂上宿舎」で医学生が登山者救護のボランティア活動を行うもので、1931年設立という、昭和大の伝統ある部。現役医師や看護師、地元の救援パトロール隊など、救護の現場でさまざまな職種と関わりながらの活動は、貴重な体験の場であった。

「知識と実務が初めて結びついたという感覚があって、『ガリ勉』一辺倒だった私に知識を生かしながら、集団生活の中で他者と関わり、理解し協力するといった『社会性』を身につけるきっかけをいただきました」

当時69年の部の歴史の中で女性初の学生代表にも任命され、「同級生をはじめ、先輩や後輩に助けてもらいながら任務を全うできたことは、社会人としての現在につながる大きな基礎になっています」と振り返る。

その頃めざしていた医師像といえば、父が腎臓・肝臓に持病があったことから「何でも診られる腎臓医師」。しかし、卒業を1年後に控えた頃、父が地元の救急外来を受診した後に急逝。腎臓だけでなく、何でも診られる医師にならなければ―その想いを抱きながら、臨床研修で救急外来の診療に触れ、卒業して研修医・消化器科の後期レジデントとして救急外来診療を行う中でさまざまな危険を経験し、徐々に「救急外来を安全な診療の場にしていくこと」が自分に与えられた使命と感じるようになった。

昭和大学垂水准教授04
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学生時代の白馬診療部での活動

ER型診療の黎明期に救急の世界へ

卒業後は、国立病院東京医療センター(現:国立病院機構東京医療センター)に内科研修医として就職。その後、消化器科レジデントとして2年ほど学び、2005年7<月に昭和大学病院へ。当時はまだ一般的ではなかったER型診療を専門とすることに不安があったものの、救急医学講座の前教授の有賀教授との出会いもあり、大学に戻ることを決意した。

最初は救急部門の救急内科、続いて内科の一部門である総合内科、そして総合診療科を経て再び救急の一部門である「救急診療科」に所属し、現在に至る。さまざまな組織に所属して診療を行う中では失敗もあったというが、「どんな仲間とでも良好に協働していく」というスキルを身につける機会であり、現在に生かされている。

現在、昭和大学病院の救急診療科に所属しているのは、診療科長である垂水准教授ただ一人。あとは救命救急科をはじめ、内科や外科など他の各診療科からの応援体制で診療を行う。しかも研修医は1ヶ月ごと、医師スタッフは3ヶ月毎に入れ替わるため、その都度チームを作っていかなければならない。垂水准教授はメンバーにあわせて毎回違った工夫を加えながら、皆が安心して気持ちよく働ける場を作っていく。

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垂水准教授が診療科長として指揮する救急診療科は、各診療科から派遣されたスタッフにより、定期的にメンバーが入れ替わる

垂水准教授自身、2004年の新潟中越地震、2011年の東日本大震災の被災地での医療支援に参加、近年では2021年の東京オリンピック・パラリンピックでの会場医療責任者など、特殊な医療チームで貢献してきた。これらの経験は「限られた資源の中で仲間と協働し、医療者としての使命を果たす」という力となり、現在のチームづくりに大いに生かされているという。

完全シフト制の中で毎回構成が変わる「チーム医療」。垂水准教授はメンバーの得意分野を考慮して、どのような症例がきたらどうのように対応するか、業務開始前に頭の中でシミュレーションするという。特に負担の多い看護師の業務が円滑に回るよう、「みんなができることは自分がやる」「自分しかできないことは自分がやる」ということをチームリーダーとして心がけているという。「当科の業務を終えて『楽しかった』『勉強になった』と言っていただけることが何よりのやりがいですね」

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東日本大震災の被災地岩手県山田町での医療活動。垂水准教授は発生直後の昭和大学医療救援隊に参加した

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東京オリ・パラでは有明アーバンスポーツパークでの会場医療責任者を担った。無観客ではあったが、選手・審判・スタッフなどの重傷外傷が相次いだ

好きであることが学び続けられる力

日々の救急診療ではさまざまな患者が訪れる。「どうして今まで我慢していたの?」というような患者もいれば、中には「夜中に包丁で指を切った」「昼間飲んだ薬が効かない」といった一見緊急性を感じない患者も訪れる。しかし「よくよく話を聞いてみると、生活サイクルや不安やストレス、家族関係など、その人なりに理由があります」と垂水教授。寄り添うことで、新しく知ることが常にあるという。

診療の傍らで学生の講義や実習も担当する。「昭和大の良さは、教員と学生の距離が近くフレンドリーなところ。教員同士も他大学出身でも風通しがよく連携が取れていて、実習など学びやすい環境ではないでしょうか」

受験生に向けては「医学部合格がゴールではなく、在学中、卒業してからも業務をこなしながら勉強がずっと続きます」と語る。それでも続けられるのは、医師という仕事、医学という学問が好きだからに他ならない。能動的に学び続けるには「好き」が最大の力になる。

最後に「自分の苦手を知ることが大切」という垂水准教授。「自分にできないこと、苦手なこと、助けが必要なことに目を向け、周囲に発信することで、謙虚さ、他者を尊敬や優しさが生まれます。そして自分の得意分野でどのように他者に役に立てるかを知ることができます。ぜひ多くの人に出会い、より多くのチャレンジをしてください」

苦手を知ることで、他者を尊敬し、他者に役に立てる自分を知ることができる

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昭和大学病院

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※2023年6月時点の取材内容

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幅広い学部間交流と多彩な実習・講義で
“人々の為に常に真心を尽くす医療人”を育成
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